2012年9月29日土曜日

子どもの行動は、正しいか間違っているかを問うことはできない

たとえば、すべてのアリがエサにたどりつくことが出来る能力を持っていたら、
アリは絶滅してしまうだろう。
10匹のうち2匹は鈍感で、いつもエサをみつけることが出来ない。
たまたまそのエサに毒が入っていたら、エサをみつけることが出来なかったアリだけが
助かる。
そのバランスのお陰で、アリはこの世に残ることが出来る。

もっと、森田さんは、専門的な内容でお話されていたのですが、
都合のいいように話を変えてしまいました。


常に、子どもの行動には、すべて意味があるので、
その行動を静止させることはやってはいけない、
ぐらいに考えていたのね。

今、この子にとって必要なことを、
この子は大人以上にわかって動いている。


でも、このアリさんのお話を伺ってから、
さらに、子どもひとりひとりの行動がおもしろくてたまらない。


たとえばね、
今週のすまいるリトミック3歳児クラスのレッスン。

お池の飛び石、というレッスン。

池に落ちないように、ぴょんぴょん石の上(カラーボード)の上を、
飛びましょう。

提示された数だけ飛びましょう。

おともだちがジャンプをして着地した瞬間に、手をたたきましょう。

リズム感や集中力、数、呼吸、など、
さまざまなねらいがあるんだけど。


最初にみんなで飛んでいた男の子。
何を考えたのか、ひとりでレッスンバックの中から、
自分のカラーボードを出して、
教室のはじで飛びだした。


おもしろいでしょ。

それを、よく考えたね、も、いっしょにやろう、も、
言わないんだけどね。

ああ、この子は、
この池の中にサメがあらわれたら、
助かる!と思ったの。

全ての子に、同じ行動をさせたら、
人類の危機になる。
大げさなようだけど、それは、間違いないかもね。


と思ったら、

伊丹教室での3歳児クラス。


「ぼく、池で泳ぐよ!」

「ぼくも、泳ぐ!」


スイスイと腹這いになって泳ぎ出した。


そうなったら、こっちも、
すいすい~なんて音楽をつけたところ。


「サメがきた!」

「食べられる!」


(サメがきたって!こりゃ大変だ!)

だらん~だらん~だらだらだらだら~♪


子どもたちと即興で作っていく空間なんて、
たまらなく楽しい。


でもね、
だからといって、なんでも子どもの言うことを聞かないといけないのか。
大人が、我慢、という言葉を使うくらい、
見守らないといけないのか。


それは、また別のお話ね。


秩序。


その線引きのようなところが、わからないなあ、
と悩んだ時は、

お母さんが見ていて嫌だな、と思うことは、
嫌なこと。

理由?

お母さんが嫌だから。


それでいいと思うんだよね。


リトミックのレッスンの時間は、
まずは、子どもたちが、
自分を表現出来る場であることが必要だと思うから。

いろいろとぶつけることが出来る、と安心した後に、

今度は、自分らしい表現が生まれてくる。


子どもたちの、
その表現が、たまらなく好きなのです。


どうぞ、お母さま方も、
楽しんで見てみましょうね~。


















2012年9月26日水曜日

とてもていねいに指導していただき、子どもの「その時」「今」を すごく考えてくれます。


すまいるリトミック教室のお母さま方へ、
アンケートをお願いしました。

この秋の、なんともお忙しい中、ご丁寧に綴られた言葉たち。

ありがとうございます!

マイベストプロ神戸
みんなの声





ここにはちょっと書けませんが。
というような、「こうしてほしい」「これはちょっと」などありましたら、
直接おっしゃってください。

少しずつですが、
子どもたちにとって、いい場になるようにしていきたいと思います。

どうぞ、
よろしくお願いします。




2012年9月24日月曜日

音楽と数学と祈り

数学の演奏会へ。

森田真生さんを、心のアイドルと勝手に言っています。
どこかで、森田さんは天才だ、ということを書いた記憶があるので、
前奏は省かせていただいて。

上のリンク先にあるように、場所は、
應典院





以前、上町台地と私学教育(だったかしら)の講演会に参加させていただいた時の、
あの興奮がよみがえってきました。

大阪のこの土地の歴史と文化。
今、そこを歩いている、と思うだけで、吐きそうになるくらい。

お陰で(?)開場時間よりも早く到着しました。







森田さんの講演会は2度目。
前回は、大阪城の中の、畳の上のお部屋で5時間だったかなあ。

帰りの大阪城の桜が、今まで見たこともない桜に見えるくらい、
世の中が変わって見えた。


少し時間がたったから、落ち着いてきたけれど、
今日も、道路がなんで曲がっているんだろう、とか、
道のこのタイルの形はなんだろう?とか、

ちょっと怪しい人に変身。

その怪しさ満点の帰り道に、音楽が耳に入ってきたのね。
いつもならそれまで、なんだけど。ドラッグストアだったかな。

この音楽の代わりに、そろばんの計算の掛け声は流れないよなあ。
はい!計算しなさい!とか、言われたらどうする?

音楽は、こうやって求めていないところにまで、
垂れ流されているんだよね。

何かに書かれていたことなんだけど、
音楽を音楽として聴く機会がなくなってきている。

その、ドラッグストアで音楽を流している理由は、
人の購買意欲を上げるため、であったり、気持ちよくさせるため、であったり、
そう。そこには、人のため、ではなく、利益のため、が大きい。


数学の演奏会が、

 心地よい音楽に身をゆだねるかのごとく、
 なぜだか胸おどる森田数学の調べ。


なんで、数学が音楽に聴こえるのかは、
数学と音楽はなかよしだから、と、ひとことで言ってしまえば
それまでなんだけども、そこに、「身体性」のようなものが、
あるんじゃないかなあ。


ツイッターに、こんなこと書いてしまっているんだけれど。

アールアールアール、ないないある、のように、三連符とか。タァーイタァーイのように、ふてんの音符のような、盛り上がってきたときに、強くなって!!!!あふううーっ脱力、吸って吸って吸ってぇええええ!吐くぅううう〜、のような。呼吸があの場にいた人達がいっしょになった感じ。そこが音楽。


数学の演奏会、は、そこになにかを求めて集まっている人達がいて。呼吸がいっしょになる。音楽を演奏するAさんは会場Bさんに、の一方的にではなく。空間の空気のようなところにいるCさんのところに、集まっていく。そのCさんの動きに身体が揺らぐ感じ


だから、音楽の、なんてうまく言えないけれど、身体で感じる音楽。まつげが揺れる音楽。みんな手に音叉があってそれが震えあって、音をこちらも出しているように。


森田さんが、そこで、やじるしがくるくるの絵を書いて、それの意味がちょっとわからないなあ、の時は、にやっと笑いが出てくるの。2のナンジョウが〜も、わからないぞにや。この、にやって、音楽に身体が合わなかった時に出るにや、といっしょだなってね。ふふ、えへへ、のような。


音楽は数学がいっぱいで、リトミックの研修も3時間計算とかね。計算?かなあ。わからないから、数を重ねていくっていうのかなあ。それを動いて確認するのね。色や形が見える人がいるって。色とか、なんだろなあ。はっきりしたものじゃないなあ。あれ、朝方に!ついつい。それではごきげんよう(笑)



ごきげんよう!と言いながら、このブログにしつこく書いてしまってごめんなさいね。

なんだろうなあ。きっとね、この森田さんのお話を家で聴いても、
このようにはならないと思う。
音楽をCDで聴くのと、ライブ会場で聴いたのが違うのといっしょね。

そこに、共感性のようなものが発生するんだろうなあ。



「21世紀に私たち人間が取り戻さなければならないものは、自然と生命への共感にみちた、叡智のふるまいなのです。(中略) 私たちは、自然と生命の語りかけるものに耳を傾け、お互いの呼びかけの中から、新しいインターフェイスをつくりださなければなりません。」

森田さんが紹介してくださった、中沢新一さんの言葉。

涙が出てくる。

数学がその逆に使われてしまっていた、というのは、数学だけではなく、
きっとわたしの中にも、たくさんあることなんだって思って。

自然を知るのではなく、お互いが響き合っていかないといけない。

音楽のようにね。


子どもたちに対する姿勢ひとつ。
もういちど見直すきっかけをいただきました。


ありがとうございました。

この会場にいる人たちと、同じ年代に生きることが出来てよかったなあって。

森田さんのお話聴きながら、
何を考えていたのか、恥ずかしいね。


またよろしくお願いします。



2012年9月21日金曜日

子どもをほめればいいというのは、ちょっと違う。

努力をほめられた生徒たちは、テスト結果が有意に上昇し、平均スコアが30%伸びた。

にも研究結果が出ているように、
「ほめればいい」というものではないのね。

今日の午前中は、伊丹教室で2歳児のリトミック。

教室は3階にあるから、よいしょよいしょ上がってきてくれたの。

扉を開けてすぐに、

「おはようございます!」の声。


この階段を上がる時から、
「おはようございます」の練習をしてくれたらしいの。


おはようございます、の挨拶をきちんと言えることは、
とてもいいことね。
挨拶はお互い気持がいいからね。

おはようございますって言いなさい、ではなく、

おはようございますって言えたね、でもなく、

「階段を上がりながら練習したんだよね、えらいね」

とお母さま。


上のリンクした、研究結果といっしょ。


「努力したことをほめる」


挨拶で思い出したけれど。

「子ども格差」
 -壊れる子どもと教育現場-
 尾木直樹著

「命の教育」や「あいさつ運動」はいらない

とある。

‘どの実践にしても、少しも子どもと向き合っているようにはみえないから”

“いまこそ市場原理・競争原理主義的な「教育革命」はやめて、
優しい心を育み、子どもと教師、保護者の信頼にもとづく地道な教育が
のびやかに展開できるよう条件と環境整備にこそ力を注ぐべきなのです。”


大人の目で見た、いい子は、
もういらないです。

自動販売機のような人は、
人ではありません。


大人も大人の理由があります。
でも、子どものため、としていること。

それは、本当に子どもが望んでいることですか?


「はあ~、先生!おはようございます!っていえたよぉ~!」

男の子。

うれしいなあ。ありがとう。





2012年9月18日火曜日

誰かが素晴らしいことをした時、すぐに拍手しなさい

「相手の目を見て話なさい」

「他人の意見や考えを尊重しなさい」

・・・

など、リトミック研究センター会長の17カ条がメモに残っています。

その中の、
「誰かが素晴らしいことをした時、すぐに拍手しなさい。」

があります。

表現という言葉は、とても広い範囲で使われています。

 自分の意見を言いなさい。

など、こちらに関しては、
お母さまの心配が多いひとつではないでしょうか。

リトミックレッスンの中で、
みんなの前で何かをするようなことがあります。

例えば、ひとりひとりでのおへんじもそうですね。

恥ずかしくて、出来ない子、
緊張のあまり泣いてしまう子、
照れ隠しでしょうか(笑)走って逃げちゃう子、

この姿は、この子の表現です。

なにも、悲しむことはないと思うのです。

 ちゃんとしなさい!

の「ちゃんと」の意味は子どもたちはわかりません。
それに、
おへんじをきちんとすることが「ちゃんと」だと、
私自身は考えていません。


 今、世の中は表現者で溢れています。
 音楽で表現する人、絵画で表現する人、
 文字で表現する人・・・。

でも、それを聴く人が少ない。

空回りのようですね。


表現、というのは、
相手の表現に耳を傾けることが出来てから、
自分の表現を自分の好きな形で、
伝えたいと思う気持ちから、
溢れてくるものだとも、思っています。


リトミックのレッスンで、
口うるさいおばあさんのように言ってしまうことは、


「拍手!」です。


おともだちが、おへんじをしました。

「拍手!」です。


自分の表現(おへんじ)が終わったから、
もういい、

ふらっと教室の中を歩きます。

歩くのはいいのですが、
拍手!をしなさい。


人の気持ちがわかるやさしい子へ、


それは、
耳を傾ける、ことから育っていく、

それも、
幼児期に必要なことだと思っています。







2012年9月16日日曜日

改行されていませんね。

前のブログ。

改行されていませんね。

もういちどやりなおさないといけませんね。

めんどくさいですね。


そのままでいいですね。


はい。



TEDの1日

 茂木健一郎TED2012でのトーク を、
ustで拝見しておりました。

 そして、今日。


 


TED×Kyotoをust中継。

 もう、ドキドキ。もちろん、わたしが話をするわけでもないのに、ドキドキ。

 教育者 加藤ゆみさん の紹介文だけでもわくわく。

 教育者 「こども」にきづき、みらいをきずく。これが、加藤ゆみさんが理事長を務めるNPO法人「こどもアート」の目指すもの。「『こども』は未来」と位置づけ、アートの視点から、こどもたちがイキイキと輝いて生きるお手伝いをします。さらに「『おとな』の未来」として、こどもたちとアートに触れ、「こども」の存在を再認識したり、内なる「こどもゴコロ」を目覚めさせることで、こころ豊かな暮らし、新しい社会をつくる原動力になってほしいと考えています。そのキーワードは、あそびとまなびの造語「あそなび asonabi」。「あそび」と「まなび」、両者に共通するのは、「び」です。「び」は、「美」に通じ、見方や感じ方、価値観までもが変化する意識です。あそびからなにかをまなぶから面白く、まなびがあそびに変わるからもっと学べる。生きる歓び、ワクワクすること、まちの元気をもっと増やしたいと、ワークショップやイベント、研究会、講座などを企画・運営。イタリアのレッジョ・エミリアと組んだ「あそなびフェスティバル」や,福島のこどもたちとともに天橋立でモダンダンスを遊ぶ「FUKUSHIMAこどもサマーキャンプ」など、先進的な取り組みを行っています。



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