2014年7月20日日曜日

音楽する身体 

音楽の授業で子供の音楽する姿は自然ではない。子供が、能面のような表情で死んだような身体で音楽活動をするのなら、そのような不自然な授業は教師の責任以外の何物でもない。子供のやる気を掘り起こす指導をしていないからだ。
 「音楽する身体 音楽科教育における大いなる課題 松田京子」2009より
6年 男子児童作文
(中略)4月、新しい音楽の先生の出会いから始まる。・・略・・まず、一人ずつ自己紹介した。ぼくは「音楽は、教科とは考えていません。ぼくは、K校を受験するつもりです。N塾でも、偏差値は高いんです。音楽は、何の興味もありません」と言った。言い終わって、「どうだ、言ってやったぞ。さまあみろ。おこれ。おこれ。まあ、音楽の先生がおころうが、ぼくは動じるものではない。」「ふん」という挑発的な心ですましていた。しかし、先生はおこらなかった。「I君、人間、学ぶべき時に充分に学ぶことはすばらしい。知恵を養い、教養を高め、目標に挑んでいくことは価値あること。これからも先生も応援します。」
 この言葉を聞いたぼくは、驚いて、後ろにのけぞり、尻餅をつきそうな思いだった。「塾の点数を最優先するぼくを、なぜおこり、嫌な目でみないんだ。」こんなことがあってから、ぼくは、週二回の音楽の授業を楽しみに待つようになっていく自分に驚きながらも、信じられないくらい音楽にひかれていった。
 そして、音楽の楽しさ、深い味わい、神秘性、そのようなものを心から感じられるようにぼくの心は、少しずつ目覚めていった。ぼくだけでなく、クラスのみんなも、音楽に対する態度、関心、接し方が変わってきた。・・略・・なにより、ぼくを中心とする音楽嫌いだった人たちも今やのめりこんで音楽を表現していくようになった。1学期の中頃、担任のA先生がぼくたちの歌を聴きに来てくださった。先生は、聴き終わった後、絶句して、泣いた。5年の時からの担任のA先生が、生まれ変わったぼくたちの歌っている姿を見て、歌を聴いて、なぜ泣いたか、ぼくはとてもよく分かった。
 ぼく自身、どんどん音楽に引き込まれていく自分に驚きながらも満たされた気持ちの日々だった。
 リコーダーの試験があった。ぼくは、いつもぼくを認めてくれる先生をがっかりさせる演奏をしたくないと思った。でも、いくらその気持ちがあっても、3、4年生の時、ろくにリコーダーの練習などしてなかったぼくにとっては、急にすばらしい演奏をしようと思っても無理な話だった。途中でつっかえたぼくは、頭の中が真っ白になり、指がガタガタと震え、無惨な姿だった。ぼくは、心の中で「何だ。リコーダーも満足にふけないのか
と思われたと思った。しかし、先生は、試験の後の講評で「I君は、自分の番が来るまで、他の人が演奏している時、いっしょに指を動かして一生懸命練習していたね。先生は見ていたよ。君は、より美しく心をこめて演奏したいという気持ちを溢れさせて試験に臨んだ。ガタガタ震えるくらい全力で必死にがんばったね」と言ってくれた。(中略)
ぼくは、試験の後、皆で「つばさをください」を歌った時、目をつぶって、歌の内容を浮かべながら、体をスウィングさせて思いきり歌った。心の中に涙が溢れた。(中略)ぼくは、今までで初めて、上手に吹きたいと思って吹いた。それをわかってもらっただけで十分だった。(後略)

 
6年児童作文(2002)音楽鑑賞教育復興会作文コンクール入賞作文より

わたしも、泣いた。


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