2014年7月21日月曜日

色をいただく

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
  私は順番が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわなずにこちら側に宿すのである。
雪の中でじっと春を待って芽吹きの準備をしている樹々が、その幹や枝に貯えている色をしっかり受けとめて、織の中に生かす。その道程がなくては、自然を犯すことになる。蕾のびっしりついた早春の梅の枝の花になる命をいただくのである。その梅が抱いている色は、千、万の梅の一枝の色であり、主張である。
私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。その色と他の色を交ぜることはできない。梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。
化学染料の場合はまったく逆である。色と色を交ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。単一の色では色に底がない。化学染料は脱色することができない。自然が主であるか、人間が主であるかの違いであろう。
「色を奏でる」志村ふくみ・文 井上隆雄・写真

子どもが主であれば、子どもの色が、染まるのでしょう。




  志村ふくみさんの「一色一生」も、開いています。ひさしぶりに、美しい日本語に出会いました。すっと、背筋が伸びる思いです。



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