2014年11月28日金曜日

同じ音楽の時間は流れない

同じことをお家でやって、と言われたけれど、出来なくて、
とお母さま。
こういうことか、とよくわかりました、ってね、
わたし、うれしくてね。昨日、レッスンが終わってから、言葉にしようと思ったけれど、
これも、伝えられなくて。
ここは、ノートなので、ざっくりとメモしておきます。




男の子が「もういちど」と言っていたことは、
五線カードに、ドレミファソラシド、の玉を置いた後、
鍵盤の上でも、ドレミファソラシド、を同じように指を動かした。

ひとりずつ、そして、そして男の子ふたりで、そして、
わたしもいれて、3人で。

ぴったりと3人の呼吸が合って、すっと、最後のドの音を弾き終えた時、
空気の中に丸い大きな風船のようなものが、ほわんと舞った。

男の子は、ここは憶測でどのように感じたかはわからないけれど、
この「ほわん」を、きっと「もういちど」とお母さまにお願いしたのだと思う。

前回のノートで、砂時計のことを綴ったけれど、
それと同じで、一度流れてしまった時間は、戻すことはできない。

音楽は録音再生機で何度も繰り返し聴くことができるようになって、
町には、消費を促すように、呼吸をはやめる音楽が流れ、
ヘッドフォンで自分ひとりの耳を聴き、
音楽と耳の間の距離がなくなり、自分の聴きたい音楽と耳の間を流れる音は、
雑音と排除され、より透明な、より繊細な自分だけの空間を作り出した。

音楽は、社会をそのまま映し出す。人がそれを求めているから。

求めているものを否定なんてしないし、それは音楽ではない、とも言うつもりもないけれど、それとは別に、幼児期に、様々な音楽の場を経験することで、
より人間らしい生き方が出来るのではないか、と、大げさだけど考えている。

人間らしさ、とは?

この「ほわん」だけに限って今思うことは、
人と人の間を流れる空間を生きる、
そのまた人と人をつなぐ、木や土や宇宙全体を生きる、

あらま、大きくなりすぎた。

でもきっと、お母さまに「もういちど」とお願いした男の子は、
今度、それを、どこかに求めながら、これから生きていってくれると思う。

どこで、どう、どのような形になるかは、
それは、だれにもわからない。
あとは、この子が選んでいくよ。

ああ、楽しみね。
ありがとう。

すまいるリトミック





2014年11月19日水曜日

砂時計からリトミックへ

先日、
「ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古」を観てきました。




その中で、砂時計が非常に印象に残っていて、
さっそく購入。



1歳児クラスから、小学生クラスまで、この砂時計をレッスンに取り入れてみよう。
(4歳児クラスと小学生クラスはこれから)

1歳児クラス。
じーっとみつめる。「はんたいにして!」もういちど、みつめる。

2歳児クラス。
息を止めるかのようにみつめているけれど、
それよりも、「ぼくの居場所確保」の方が、今は重要らしい。
自分の見る位置を、押したり、外したり、微笑ましい時間。

3歳児クラス。
「まんなかが、へっこんでいく!」
「ほんとだ!もう少しでなくなる!」
そして、
「わたし、きょう、服を2枚着てきた」
「わたしは、きょう〜・・・」と
わたしのお話が続く、砂時計3分間。

5歳児クラス。
この間映画を観てきてね、
砂時計ってね、人生のようで。
どんどん減っていくんだよ。時間は止められないし、
戻すこともできない、音楽といっしょだよね。

「その映画ってどんな映画?せんせ」

ああ、あのね、絨毯の上をね、一本のロープがあると思って、
歩いていた。

「こんな感じ?」

歩き出す子、2人。
おっとっと、そーっとそーっと、おっとっと、と言いながら。

砂時計の、砂が落ちたことを確認して、
「あと、どんなことやってた?」
と聞かれたので、ふいに思い出したことをやってみた。

円になって。
1.2.3.4,5,6,7,8,9,10~
順番は決めない、自分が思った時に数を言う、
でも、おともだちと声が重なってしまったら、1からやりなおし。

これがね、何がおもしろかったのか、
お腹抱えて笑っていたんだよなあ。
さらに、
「みんなでやろうよ!」とお母さまも呼んで、もっと大きな円に。

人数が増えれば、重なる確立も増えてくる。
それでも、大笑い。

さて、今日のレッスン終わり!の声をかけたら、

「時計周りに、順番に言おうよ!」と女の子。

そうだよね、そうだそうだ。それがいい。

お母さんも含めて、円になって、1,2,3,4,5,6,~を言う。

リトミックでは、相手に、呼吸を飛ばすように、ふわっと手で次の人に合図をする。
それをやりはじめたら、
順番に数えていった30ぐらいからかしら。

ふっと違う人に飛ばしたお母さま。(さすが)

それからは、右に左に、対曲線に、3人飛ばしに〜
ぐるぐると数がビートを崩さずに99に、

そして、最後の100を、
お母さまがわたしに飛ばしてくれたんだよなあ。

痺れるね。

「砂時計」の意味は、もっと違うところにあったと思うけれど、
何かひとつをみつめることで、呼吸を整える時間になるのではないか、
と考えた。

子どもたちといっしょに、砂時計をみつめている時間。
「いい時間」が、こうやって過ぎていくんだなあ、と。

そうそう、
5歳児クラス。レッスンが終わってから、
「お父さんとやる!」
「あした、お友達とやる!」

と、みんなの声。

お父さま、なんのことかわからないかもしれませんが、
1.2.3.4.~
どうぞ、よろしくお願いします。

すまいるリトミック




2014年11月15日土曜日

音楽に合わせて歩くことが出来ないということ


「われわれは、様々な場面で、まわりの人と同じようにふるまう、ことを強力に内面化している人間たちなのであって、それゆえ、変な人だと思われることを、ごく幼い頃から、非常に強く恐怖しているのだ」


絶賛コンテンツはなぜ増えるのか



(なぜか、大きなタイトルになってしまったけれど、気にしないで、先に。笑)

たぶん、日本の風土からそうなっているとどこかで聞いたお話。
そう、母は子のその姿を見ると、我が子は生きていけないのではないか、と
絶望的な気持ちになる。

先日のリトミック研修で、「自分で自由に歩いてごらんなさい」というのがあった。
リトミックの先生方ばかりなので、そりゃもう、ごちゃごちゃな空間が出来上がった。その次に「自分と同じ歩き方をしている人を探して一緒に歩きなさい」と。みつけることは簡単で、すぐに一緒に歩いた。
ただ、ここからが大変。どうしても、一緒に歩くと、その人に合わせてしまう。同じ歩き方をしている人をみつけて歩いているのだから、合わせる必要はないはずなのに、合わせてしまう。
同調なんとか(忘れた)というものだと思うけど、自分のテンポを守り続けること、合わせることよりも、合わせないことの方が、なかなか辛いものだ、と。

ここに、音楽なんか流れたら、狂い出すくらい歩けないだろうなあ。

ただ、子どもが、音楽に合わせて歩けない、というのは、そこまでまだいろいろと達していない身体の部分があるだけで、そんなに頭抱えて心配することではないと思っている。
だから、リトミックの即時反応の時に、音楽が止まったら、身体が止まることができた、というのは、
なにかとなにかがつながった、ということで、それほど、大喜びする必要もないのね。
音楽は、無視するよりも、猛毒になって襲いかかる時もあるから、そちらの方を気をつけた方がいいね。
ほら、今、そこでも音楽が流れているでしょう?


2014年11月14日金曜日

子どもはなぜ、怒るのか

3歳児クラスの女の子が急に(子どもはいつも急ですが)、

「あれやりたい!」
「お水を入れて、歩いたやつ!」
「スイカに、お水を入れて、そっと歩いた!」

スイカは、この子の中で、何かとつながって記憶として残っているのでしょう。
1年前、2歳児クラスでレッスンをした、
「そーっとね」のレッスンのことだと思います。

お母さんにお水を運んであげよう!というもの。
この下の写真では、子どもがコップだけを持っていますが、
お盆にのせて、お水を運びます。運ぶ先には、お母さんが待っていてくれます。





午前中、1歳児クラスの男の子のお母さま。

 「今、家で、食器を台所に運んでくれることが好きなんです」

先程の3歳児の子と違って、やっと歩き出した男の子。思わず、
食器壊されてしまうんじゃないかって、心配じゃないの?と聞いてみましたら、

 「お父さんが、持って行って、って言ってくれているから」と。
 すばらしいお父さま。

そして、3歳児のお母さま。

 「家中、セロハンテープだらけです」

と笑っておっしゃっている。
またまた、それ、嫌じゃないの?と聞いてみましたら、

 「嫌だけど、やめて、と言ってもやめないし。おもしろそうにしているから。」と。


どちらのお母さまも「わたし」が主語ではなく、「子ども」が主語。

「子ども」は、自立したい、と日々伝えています。自分でやりたい、自分でしたい。
子どもが、急に大きな声で泣き出したり、怒り出したりするのは、その子の気質にも違いはありますが、だいたい、自分でやりたかったのに、大人がそれをやってしまった、ということが原因だと思います。

それならば、自分でなんでもやりなさいよ!と投げ出してしまうと、
自分でやりたいのに、自分でできない、なんとかしてくれよおっかさん!(笑)と、
もっともっとひどい怒りになってしまいます。お母さんに怒っているのではありません。
自分に対して、怒っているのでしょう。

その時に、ここはひとつ、大人が大人になって、一呼吸入れて、
言葉を使わずに、手の動きをだいたい2倍遅くして、見せてあげてください。

子どもは、お母さんの言葉、お母さんの動き、が、はやすぎるのです。
どうでしょう、大人から見たら、新幹線が走り去るような感じなのでしょうか。

子どもは、自分がそれをやりたければ、見ます。じっくり見ます。
レッスンの時に、ハサミを持つ時、スティックを持つ時、のりを指につける時、
じっと見ているでしょう。

まずは、こちらが落ち着いて。落ち着くには、動く。整える。

このあたりは、またいつの日か。